Vol.72  あの夏の日【完結編】悔恨への一人旅    written by  鐘栄瞭

箏句(ことく)神社の祭りの夜がまるで幻想のように過ぎ去って行きました。

岩上の家から東京に帰ってからも私はあの夜の出来事が頭から離れませんでした。

やがて秋が来て、志野はどうしているだろう、手紙でも書こうかと思っているうちに慌ただしく日々が過ぎていったように思います。

しかし、志野への想いは断ち切れず、彼女の事を忘れた日など一日も無かったと思います。

ひと目、志野に会いたい。

わずかな時間でいいから。

いてもたってもいられなくなり、私は何度か東北へ単独で行く計画を練りましたがついに実現しませんでした。

その当時に子供が単独で何百キロも離れた地へ行くなど、不可能に近いことだったのです。

ましてやそんな遠方まで旅をするほどのお金を持っておりません。

仮にお金を用立てたとして、親がそれを許そうはずもありません。

志野にしてもまた、事情は同じだった事かと思います。



その年以降私は、高等科に上がり、医師になるための勉強を始めました。

ちょうどこの前の年まで従妹たちと遊んでいたあの「医師」を、本当の自分の役割として決意したのでした。

医師になるためには私程度の成績では到底難しく、親を含め周囲もその可能性を信じる者は誰一人いませんでした。

しかし私はあの夏の日、志野からとても大きな意思を与えてもらったように感じておりました。

志野には会いたくて会いたくて仕方ないけれども、今度会うときは、本当に志野の前で胸を張って迎えに行きたい、本物の男となって志野にプロポーズしたい、それこそが志野へ対する私の本物の愛なのだと、そう信じておりました。

私はこれまでの自分自身の弱さをゆかりや志野にいろんな意味で再認識させてもらいました。

だからこそ私は、自他共に納得できる人間となり、社会に出ても恥ずかしくないほどの技術や度量を身につけ、そのうえで真に愛する人と添い遂げる、それが志野にとって一番の幸せであるとも信じたのです。

それまでの間、何年かかるのかわからないけれど、きっと志野も解ってくれるに違いない。

志野とて気持ちは同じはずだ、と。

そういう断腸の想いで敢えて岩上の家にも遊びに行くことを止め、志野にもゆかり達従姉にも会わないままに成人をしました。

ゆかりとはあんな事があっただけに、正直、次に会う時どのような顔をしてよいか解らなかった、という気まずさも無かったといえば嘘になります。

志野へ手紙を何度か書きました。

表現力に乏しい私の想いが正確に伝わったのかどうか、志野にも何か事情があったのか、結局返事は来ないままでした。

そのような頑なな私の長年の想いは、自分自身への悔恨という結果で返ってきたのでした。

時代の美徳が私の目を曇らせてしまったのか、私自身が最初から全てを見誤っていたのか。

人間とは、その生涯は成長と共に深みを増していくけれど、同時になんという愚鈍さを併せ持っているのでしょうか。

努力の甲斐あって医師になれたのは、確かに私の人生観におけるゆるぎないひとつの自信となりましたがその一方で、最もかけがえのないものを失ったのでした。


遂にこの日がやってきた。

これで、胸を張って志野に会いに行ける。

それまで内に秘めていたたくさんの想いを胸に、喜び勇んで志野を迎えに行こうとした私を待っていたのは志野はとうに県外に嫁に行ってしまった、というあまりに信じ難く、手痛い知らせでした。

志野の一家も引っ越しをしてしまっており、はっきりとした所在もわからなくなっていたのです。

長年続いた家業であった石屋も長男(志野の兄)が見切りをつけ、新規事業で関東方面へと移住したという噂もあったようですが 一説には先代からの経営難と負債が重なり、一家離散を余儀なくされた、という話も耳に入ってきました。

岩上の人間に尋ねても同じような答えしか返って来なかったのでした。

誰にもはっきりとした事情が解らなかったところを鑑みるにつけ、あまり良い形での引っ越しではなかったのではないか、と思わざるを得なかったのでした。


その時の私の落胆と後悔は名状し難く、とても一言で言い表せるものではありませんでした。

あまりにも大きな勘違いをしてしまっていた自分を悔やんでも悔やみきれぬものではありません。

それは数年に渡って私を苦しめました。

今にしてみればなんという愚かな行為だったのであろう、 志野に対して、なんという寂しい想いをさせてしまっていたのであろう。

そして志野はどういう気持ちで嫁に行くことを決意したのか。

その事を考えるにつけ、私の心臓は強く締め付けられ、自らの愚かさを呪い、 生きることがかくも苦しいものなのかと身に染みて思い知らされる日々が続くのでした。

物事は私が考えている以上にずっと単純であったという事に気がついた頃には 文化も時勢も、全てが変わり過ぎていたのでした。



〜終章〜 Memories in Nucleotide


やがて私は地元で妻を取り、ふたりの子供を授かり、家庭を築きました。

都内の綜合病院で外科医として勤務しておりました。

その頃には夏になると両親に連れ添って、家族も伴い、岩上の家にも行く習慣も戻りつつありました。

ゆかりや日出子たちもそれぞれ嫁に出ておりましたが、何度かは岩上家に親戚一同が集まる事もありました。

そんな時、互いの家族を交えながら子供時代の事なども話題にのぼる事がありましたが、 母親になったゆかりや日出子もあの頃の秘密の遊びの事などとうに忘れてしまっているかのようにあたりさわりのない思い出話しか語りません。

仮に覚えていても、そのような話を場に出す訳もなく、私同様、心の隅で埃が溜まるがままに放っておいていた事でしょう。


志野にはその後も会う事はありませんでした。

私はひとり、志野の事をそっと思い出すにつれ、心を馳せてしまうのです。

あの夕焼けに燃える美しい徳利山の裾野、箏句神社の祭り、

そう、あの遠い、遠い夏の日に。


【完】
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