この度はお客様からのお注文について十分な対応が出来ずご迷惑をおかけして申し訳御座いません。
被災された皆様、ご親族の皆様 お見舞い申し上げます
3月11日の東日本巨大地震で私の大学時代の後輩家族とご両親が被災しました
地震が起こったとき私はすぐ事務所を飛び出し揺れる倉庫を眺めていました
余震が少々おさまる度に事務所から避難用品などを運び出しておりました
ただあまりにも激しく頻繁に繰り返す余震に正直、びびりました
とにかく経験したことがないほどの揺れでした
倉庫自体にはたいした被害もなく(自宅も同じく)その点は助かりました
ある程度揺れがおさまってテレビをつけると仙台市の名取川河口付近に大津波が押し寄せ、多数の民家を押し流している様子を映していました。
それは言葉が出ないほど衝撃の光景でした。
この日(3月11日)は陸前高田の情報は少なかったように思います
だから変な安心感があったんだと思います。自分の中に。
夜 ツイッターで電車が止まった影響で帰宅困難者が多数でて、一部の人たちが歩いて国道6号線を帰宅中と知りました。
たいしたことは出来ないけど自転車乗って6号線に向かいました
それで23時から翌午前1時までの2時間、国道6号の北小金入り口の下り車線でサクマのイチゴミルクキャンディーを配りました
凄く寒い中、皆さん黙々と歩いていました
話を聞くと、上野、汐見、秋葉原などから5、6時間かけて歩いてきたそうだ
これから守谷まで歩くという方もいた
そのご事務所に戻ってから陸前高田の壊滅的被害を知る
後輩がとんでもない事態に直面していることをその時知りました
翌早朝(3月12日)のニュースでテレビ局が陸前高田から生中継をしていました
陸前高田はすべて波にさらわれてしまっていました
私は彼の家も流されてなくなってしまったと思いました
私が確認できたのは、後輩夫婦が披露宴を行ったホテルのみでした
泣いた とにかく 涙が溢れた仕方なかった
2人は中学教員なので同じ中学にはいないだろう
そして長男も中学2年生なのでそこに赴任することはないだろうと色々考える
この日1日陸前高田のニュースを見る度に涙が溢れた
子どもの前でも憚らず泣きました
絶望感で一杯でした
午後3時25分にツイッターで以下のようにつぶやきました
「陸前高田の●●●先生 俺は君ら家族の写真をパソコンの前に置いて祈ってるぞ。
落ち着いたら必ずそっちいくからとにかくしのいでくれ。」
3月13日(日)のお昼過ぎにツイッターみたら驚きました。
彼の妹さんからツイッターで連絡が来ました
私は彼に妹さんがいることを知りませんでした
彼女は東京在住で難を逃れていました
その後妹さんと電話で話。
お互いに泣きました
私が緊急伝言ダイヤルで聞いたメッセージは妹さんからのものとわかりました
とにかくお互い頑張ろうと励ます
ツイッターってすごいと思った1日でした。
妹さんとの話から映像を見た限り自宅は流されていない
近くの公民館に両親は逃げているのではないか、ということがわかりました。
その後テレビで娘さんの通う小学校が避難所になっていることが判明。多分無事だとわかりました。
消防士の方が撮影した陸前高田に津波の第1波が来て逃げる映像の中で、「中学に逃げろ」という声で息子の中学校が無事であることもわかってきました
そして本日(3月14日)
朝、妹さんにメールをしました。
「今日も頑張ろう 陸前高田はいい天気のようです」と
そうしたら午後5時過ぎに泣きながら電話がありました
向こうが口を開くまで黙っていました。
良い知らせか悪い知らせかわからなかったからです。
「兄から携帯に着信があった」ということでした
それを聞いたとき不思議な脱力感がありました
うるっときましたが、以前のように大泣きというわけではありませんでした
10分もしないうちに電話がありました
「夫婦、息子、娘、両親 全員生存 陸前高田の家も被害無し」というこtでした
本人に妹さんが私と連絡をとりあっていることを話したらとても驚いたと言っていたそうです
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私は地震発生後テレビをつけっぱなしにして、パソコンの画面はツイッターをずっと表示していました
ツイッターからたくさんの有益な情報を仕入れ、励ましてもらったり、後輩の妹さんともツイッターがなければ連絡をとれなかったでしょう(妹がいるとも知りませんでしたし)
不思議な連帯感がありました
きっとツイッターがなかったらテレビを見て悶々としているだけだったと思います
自分の前にも横にも目には見えないけど支えてくれる人がいる
本当にそう思いました
ツイッターやフェースブックは災害時にも非常に役に立つものだと思います
ご利用なされていらっしゃらない方は是非アカウントをとってください