小林麻央さん逝く。僕も4歳の時母を亡くした

これが答えだ

昨日乳がんで闘病中だった市川海老蔵さんの奥様である小林麻央さんが亡くなった。

今日海老蔵さんの記者会見が行われ拝聴しました。

心からお悔やみ申し上げます。

以前に小林麻央さんがブログを開設したときに、「小林麻央さんのブログを初めて開いた」という記事を書いた。

私も5歳になる少し前、正確には4歳10ヶ月ぐらいのときに母を癌で失った。

ブログでも書いたが母の記憶があまりない。寝たきりの状態も長かったし、火事で写真を消失してしまっているので記憶を遡るというか記憶を補強するというようなことができないのもその要因なのか?ただ単に記憶力が低下しているだけかもしれないが。

以前のブログ記事で書けなかった話を1つ。

私が小学1年生の時、アパッチ野球軍というアニメがあった。

リアルタイムでも見ていたしその後の再放送も何度か見ていると思う。

アパッチ野球団
ウィキペディアから一部引用すると

かつて高校野球で活躍するも自らの手で選手生命を断った青年・堂島剛が過疎の村で、社会からはみでた不良少年たちに野球を教えていくという物語である。ほぼ人間離れした野獣ともいえるようなキャラクター達が強烈で、いまだに根強いファンのいる伝説的な作品である。いわゆるスポ根の要素が皆無と言うわけではないが、むしろ「野球部の創設に伴って起こる様々の人間模様とそれを通じた人間的成長を描いた作品」と言ったほうが近い。そのためか、実際のルールと異なるジャッジが行われることも少なくなかった。作品内容の多くは、閉鎖的な村の中で起こる村人と飯場の人間との対立や野球で一儲けしようと企む商人、その商人と村長との選挙を通じた癒着などの社会派ドラマに当てられている。
詳しくは→こちら

このチームでピッチャーをしている網走という選手がいた。

網走(あばしり)
テンガロンハットとチョッキ、腹に巻いたさらしがトレードマーク。ダム工事の飯場の主任の子でナイフ投げの名手。堂島への反発から野球に無関心の立場を貫いていたが、実はプロの投手になるのが夢であり天才的素質をもつアパッチ野球軍のエース。斜に構えたニヒルな性格であるが、クレバーであり反発しながらもモンキー、ハッパの命を救ったこともある。当初は右投げであったが実は左右投げであった。堂島に「俺をも超える逸材」と言わしめた。一匹狼を気取ってた時期もあったが、幼少時代は幼稚園に行きたがったりQL学園戦の最終回の一投で亡き母親を思い出すなど人並の感受性は持っている。

今考えてみると網走みたいなやつ絶対いないと思うのだけれど、僕はこのアニメ全体をはっきりと記憶しているわけではないがたった1つのシーンだけがずっと忘れられず今も心に引っかかっている。

そのシーンはこうだ。父子家庭の網走のお父さんが何かの用事で町に行くことになった。

お父さんが網走に「何か買ってきてほしいものあるか」と聞くと、

 

 網走が「お母さん買ってきて」と言う場面

このシーンを見て、「何だこいつ」と思った。 俺はこんなこと言わねーしと。

それから月日がずっと流れてたぶん私が中学生の頃だったと思う。

父親と話をしていたら母親の入院している頃の話になった。

入院中は祖母の家に預けられた。祖母のところも私の家も寿司屋を営んでいた。私の家から自転車で15分位の距離だろうか、松戸に昔、輝竜会館という映画館がありその道路を挟んだ斜め前にあった。

父が病院に行く時で留守番するときは店の入口のすりガラスの下のほうだけがすりガラスでなく透明で外が見渡せたのでずっとしゃがんでそこから父が帰るまで外をみていたそうだ。

そして私は網走と同じく、「お土産何がいい?」という問に「お母さん買ってきて」といったそうだ。

父もこれを言われたときは泣いたと言ってた。

まだ母は入院中で死んだわけではないのだけれど。

父からこの話を聞いた時、愕然としたとかびっくりしたというよりも恥ずかしいという思いが強かったのを覚えてる。

とにかく網走と同じだった。

小林麻央さん、さぞかし無念だと思います。

あなたの生の声を二人のお子さんはこれから聞くことはできません。

これは冷厳なる事実です。

ただあなたが命の灯火(ともしび)として残したブログは永遠に残ります

お子さんたちが大きくなってあなたのブログを読むことで、あなたにもう一度触れることができます

どれだけの愛情で育てられたかを知るでしょう

あなたは素晴らしいものを子どもたちに残してあげたと思います。

きっといい子に育ちますよ。

安らかにお眠りください。

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