先日早朝、人が歩道で倒れてた。
結構交通量のある道路の歩道で通勤・通学の人も多い通りなのにみなさん一瞥して通り過ぎていっていた。
倒れている人に声をかけたが全く反応がない。
死んでるんじゃないかとじっと見ていたら息をしているのが確認できた。
年は40ぐらいの男性。
「お兄さん、起きて!」と何度呼んでも反応がない。
その時近所の御婦人が出てきて、「この人そこの花壇の縁に座っていた」と。
倒れており位置がそこから横の辺りだったのでもしかしたら倒れたときに頭を打っている可能性があるので身体を揺することはしなった。
ご近所の方が110番してくれて道路じゃ寒いからと倒れた人に毛布をかけてくれた。
その後警察官が3人来てくれたので現場をおまかせした。
通勤・通学で立ち止まる時間がないのはわかる。
歩きスマホはいけないが緊急である歩きながら110番ぐらいできないか
今回みたいなことが記憶にある限りでも4回目だ。
何で立ち止まるのか?
それは明日は我が身かもしれないからだ
「情けは人の為ならず」ということよ
自分が人の行き交う歩道で具合が悪くなり歩道に倒れた場面をイメージした時、歩行者や自転車に乗った人たちが一瞥して通り過ぎていったらどんな気持ちがするだろうか
考えただけで恐ろしい。
話は思いっきり変わるけど、いじめの問題も同様だ
いじめている奴はいつかいじめられる日が来ることをイメージできないから他人をいじめることが平気なのではないか
何かで読んだか、人から聞いたか忘れたけどこんな例がある。
上下関係が厳しい部活動で体罰を上級生から受けていた下級生が上級生になった時どうなるか。
2通りだという。
自分たちが受けた体罰を同様に下級生にする学年。
もう一つがあんな嫌なことは自分たちの学年で終わりにしようと下級生に体罰しない。
結局は自分だったらという想像力をもてるかどうかだ
世の中の差別の問題も全ての人間は何らかの差別を受けているとイメージできればきっとなくなる。
大事なのは想像するチカラ
